2016年04月20日

「ボーイスカウトの行進」

NHKテレビでボーイスカウトが取り上げられました。
「昭和26年(1951年)
ボーイスカウトの行進
4/13はボーイスカウト日本連盟が発足した日にちなんだ「ボーイスカウトの日」。映像は昭和26年に行われた大会&行進の様子。眼光鋭いオジサンは日本ボーイスカウトの生みの親!」と説明されています。

 このブログの機能では写真にリンクを張る事ができませんので、ご覧になるには以下のurlをクリックしてください。


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 昭和26年(1951年)、日本ボーイスカウトの生みの親・クラーレンス・グリフィン氏(イギリス)を迎えて行われた、日本ボーイスカウト東京都連盟の隊旗授与式。日の丸をかざした3000人の少年たちが皇居前広場に集まり、式後はブラスバンドを先頭に日比谷から銀座通り、八重洲口へと行進を行った折りのものです。この日本富士スカウトクラブのブログのTOPで簡略に記載していますが、この式典を開催した東京連盟の村山有初代理事長はクラブ創設の発案者。GHQ(占領軍)に掛け合い、戦後日本のボーイスカウト運動を再建させた功労者。ニュースの中で各隊代表者へ隊旗を授与しているのは、その村山理事長です。なお、この時代にテレビはなく、このニュースは全国の映画館で上映されたものと思われます。

 さらに別記録では、「昭和26年(1951年)11月3日、村山理事長は「東京都連盟百隊結成記念祝典」を皇居前広場で挙行。GHQからも多数の要人が出席した。新春の隊旗授与後の新隊にも「緑色隊旗」を授与する。夜は日比谷公園で大営火を行う」とあります。

 当日各隊に配布した東京都連盟の緑色隊旗は、日本連盟から「隊旗の色は原隊のネッカチーフの色を使用する規定であり、今後使用しないように」と通達が出されました。しかし東京都連盟は、「緑の隊旗は日米スカウトの「友情の印」として使用を続けます。日本連盟はこの隊旗の使用を認めず、日本連盟と東京連盟の"大喧嘩"に発展しました。このことは、当時の朝日新聞でも報じられています。
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2016年02月19日

三島昌子さん、ご尊父三島通陽総長の思い出を語る

記録のため、他ブログの活動報告を転載しました

 平成23年2月26日午後、内幸町の日本記者クラブ会議室で、日本富士スカウトクラブ主催「EVER ONWARDの集い」が開催されました。

 毎年二度、2月と8月に記者クラブで開催されるこの会は、「EVER ONWARDの集い(略称EO会)」と呼ばれ、"最善を尽くせ!・限りなき前進!で目標,理想の峰を目指し自己研鑽(Self Scouting)する"を主旨とするもので、ボーイスカウト運動に付いてのさまざまな話題を取り上げて、かかわった皆さんのお話を拝聴しています。

 今回はガールスカウト日本連盟元会長でもあった三島昌子(あきこ)さんをお招きして、戦後のボーイスカウト再建に始まり、長年にわたってその発展に貢献されお父上、三島通陽総長の思い出をお話して頂きました。ご高齢にもかかわらずとてもお元気。参加者の中には三島総長ご夫妻に媒酌の労をおとりいただいた方も。新郎もご媒酌人も制服姿です。

 随所に笑い声が沸き起こるなど、とても和やかなひと時を過ごす事ができました。本当にありがとうございました。

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【中央が三島昌子さん、左は大石和夫日本オールドスカウト世話人、右は阪下朝一日大ローバース桜門会長】

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【開催の都度、貴重な資料などが皆さんからご披露されます。ご媒酌の労をおとりになった際のお写真です】

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【参加者記念撮影】
 
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2016年02月08日

EO会開催のご案内

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 日本富士スカウトクラブが開催するEO会開催のご案内です。昨年に発送され、すでに参加申込受付は終了しています


EO会会員各位
                                                                       EO会会長  大石 和夫
                                                                       EO会  世話人一同

                            [EVER ONWARD]の集い(略称EO会)開催のご案内

三指  今年は日本で2度目の世界スカウトジャンボリーが開催された記念の年でした。2回以上の開催国を挙げるとイギリスが最多の4回で、3回が無く、2回の開催国はカナダ、オーストリア、オランダ、そして日本の4ヶ国です。あのアメリカが、まだ1回というのは驚きます

 世界スカウトジャンボリーを開催する大会関係者には相当前から準備の必要があり、大変なご苦労があったと思います

 今回の「EO会」は、第23回世界スカウトジャンボリーで日本派遣団の副団長という大役でご活躍された、埼玉連盟理事長の牛山佳久様から世界ジャンボリー開催にあたってのご苦労や裏話などを含めて、今だから話せる貴重なお話などを伺う集まりを下記の通り開催します

 なお、今回の「EO会」開催日は例年の2月最終土曜日ではなく、一週前の土曜日になりますのでご注意下さい。出席希望者は会場の都合も有りますので、必ずお申込みのうえご出席下さい(お申込み〆切りは1月5日)。
                                                                                                          弥栄
                                                        記

 日時 2016年2月20日(土曜日) 13:00〜15:00
 場所 日本記者クラブ小会議(千代田区内幸町日本プレスセンタービル)
 次第   開会
    ・第一部(13:00〜14:20)
     挨拶 大石和夫EO会会長        
     講演「第23回世界スカウトジャンボリー、他」
                  埼玉県連盟理事長   牛山佳久様
    ・第二部(14:20〜15:00)
     懇談
     閉会 15:00

 会費 1,000円

以上

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2016年01月25日

【転載】富士スカウトクラブ「EOの会」、中村ちーやんを語る会を開催

 このブログは、日本富士スカウトクラブの公式サイトです。
 しかし、fuji-scouts-club.jpのドメインを取得する以前は、個人のブログで活動のご報告を掲載していました。

 数年前からはこのブログでも活動内容のご報告を行っていますが、別ブログに掲載されている記事どがこちらには未掲載という箇所もあり、記事を整理してこのブログに掲載する作業を行っています。

 今回はその最初として、2008年8月に開催された「中村 ちーやんを語る会」を転載致します。


・富士スカウトクラブ「EOの会」、中村ちーやんを語る会を開催

 '08年8月30日午後、内幸町の日本記者クラブで、富士スカウトクラブ主催の「EOの会」が開催されました。この会は毎年二度、その時々の興味深いテーマでの講演があり、今回は早稲田ローバース(東京第149団青年隊・現新宿第2団ローバー隊)創立のメンバーのお一人である粕谷信夫さん。小学校の校長先生で退職され、現在は幼稚園の園長先生。粕谷さんの奥さまは、中村知(ご存知、ちーやんです)さんのお嬢さん。

 改めて申し上げるまでもなく、中村知さんは戦前から日本ボーイスカウト運動発展に深くかかわり、大きな貢献をなさった事はご存知の通りです。スカウトソングの作詞作曲、数多くの翻訳とその思想の普及活動、そして「ちーやん夜話集」などで私たちはお世話になっています。特に、夜話集の中の「ローバーリングは電源である」はよく知られています。「単位団でも地区でも県連でも、ローバースカウトの発電力がなかったら、機械はうまく動かないだろうと、思う」と。

 当日、粕谷さんから中村さんの大学ノートなどが回覧されました。それには原文と邦訳が、きちんと整理され書き込まれています。目がご不自由で、天眼鏡を手放せなかったとお聞きしましたが、中村さんのスカウティングへの情熱が強く感じられるノートです。
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 何人かがお帰りになりましたが、ご参加の皆さんの写真です。中央の女性は中村知さんのお嬢さん、その右は粕谷信夫さんです。
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 会の最中、粕谷さんのお話を受けての発言が続出したり、終了後、あちこちで思い出話の花が咲きました。会は午後4時お開きとなりましたが、それからも2時間近く、幾つかのグループができて場所をかえ、お話が継続しました。様々に語られるお話の内容は、何らかの形で記録、掲載したいものと感じています。神奈川連盟の矢島巌さんが「先達十話」シリーズで有償配布していますが、そこまでの力はありませんので、ウェブサイトを作り、皆さんの興味深いエピソードをご紹介しようかと考えています。
・矢島巌さんのウェブサイト http://www.vistaworld21.com/

 なお、中村知さんの「ちーやん夜話集」は、以下のurlからご覧になる事ができます


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2015年12月27日

メソニック協会見学会

 平成27年11月28日土曜日  日本記者クラブでの定例の「EO会」の形を変えて「見学会」が企画されました。今回の見学会は、戦後のボーイスカウト再建時に、最初の事務所を置いた元海軍将校クラブ「水交社」、現在の「東京メソニックビル」を見学しました。位置は東京タワーの見学者入口のすぐそばになります。
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【メソニックビル】

 当時の水交社は連合軍総司令部(GHQ)に接収されて米軍が使用していましたが、その水交社ビルに、ボーイスカウト日本連盟と東京連盟の事務所を置き、戦後の最初の事務所としています。また、今では考えられない事ですが、GHQの最高司令官マッカーサー元帥に日本ボーイスカウト連盟の名誉総長をお願いして受諾いただき、その名誉総長室も水交社ビル内に置かれました。

 現在は水交社の建物は建て替えられて残っていませんが、マッカーサー元帥が名誉総長室として使用していた当時の家具やマントルピース等の装飾品などはそのまま残し、復元された部屋が保存されています。

 今回は東京メソニック協会のご好意により、復元されたメーソンのマッカーサー名誉総長室や、ロビーの日本メーソンの初期メンバーだった三島通陽ボーイスカウト日本連盟総長や村山有日本ボーイスカウト東京連盟理事長の名誉ネームボードや、メーソンの非公開儀式室などを見学しました。
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【名誉ネームボード】

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【スコティッシュ・ライト・ホール】

 当時、東京連盟のボーイスカウトと米国ボーイスカウトとの交流は水交社ビルで度々開催され、野外での交流行事は渋谷の米軍基地ワシントンハイツ(現在のNHK、代々木公園)で開催される事がありました。交流会には米国極東連盟から、ホットドッグやアイスクリーム等のプレゼントがあって日本のスカウト達をとても喜ばせましたが、コカコーラは初めて経験する味で、日本のスカウトは最初ほとんど飲めませんでした。しかし回数が重なる内に先輩スカウト達はコーラも飲める様になり、コーク、コークと通ぶっていたそうです。EO会の常連である山口陽さんはこの日は参加出来ませんでしたが、後日、この交流集会へ参加していたとお聞きしています。

 また、当時水交社ビルでは力道山が相撲を辞めてプロレスラーになるためにマットを敷き、米国人レスラーから手ほどきを受けていたり、外国人の出入りも多く、戦後歴史の一端を、垣間見る事の出来る場所であったようです。

 今回のEO会の見学は、戦後の日本ボーイスカウト日本連盟がスタートした場所を見学すること、メーソンのマッカーサー元帥が日本のボーイスカウト名誉総長を受諾して、他のメーソンの皆さんと協力して支援の輪を拡げ、運動が拡がっていった事を再認識する見学会になりました。戦後、短期間で全国に数多の団が創設され、公務員や教員が責任者やリーダに就任しています。これは何か「特別な力」が働いたのだろうと、容易に想像することができます。戦後、掲揚を厳禁されていた日の丸ですが、それを最初に掲げ、さらに銀座通りをパレードまで行ったのはボーイスカウトです。当時の東京連盟責任者であった村山有さんはMPにGHQに連行され、「逮捕されるのを覚悟していたが、国旗の尊厳を知らしめる活動は良い事」と、むしろ励まされたとその著書の中で書いています。

 見学後復元されたマッカーサー元帥の名誉総長室で 東京メソニック協会の竹田真也様から現在のメーソン事情などを伺いながら懇談をして解散しました。
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【名誉総長室 マントルピース】
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【名誉総長室 シャンデリア】
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【名誉総長室】
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2015年09月21日

2015年8月 EverOnwardの会 開催のご報告

 2015年8月29日、恒例の[EVER. ONWARD]の集い /(略称EO会)が内幸町の日本記者クラブ会議室で開催されました。今回のテーマは「1955年ボーイスカウト第8回世界ジャンボリー(カナダ)に参加して60年」です。

 今年の夏は日本の山口県山口市きらら浜で第23回世界スカウトジャンボリーが開催されましたが、EO会会員の鈴木高様と石田文夫様が1955年(昭和30年)にカナダで開催された第8回世界ジャンボリーに日本派遣団員として厳しい選考の結果選ばれて派遣されています。派遣当時はまだ一般の海外渡航は許可されず日本から海外に出かける方は非常に少なく今では想像も出来ない苦労も沢山あった時代です。

 今回の「EO会」は鈴木様、石田様が派遣されて60周年目の節目に当たりますので、お二人から、第8回世界ジャンボリーのお話を中心に当時の貴重なお話を聞かせていただきました。

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【第8回世界ジャンボリー参加章】

 まずEO会の大石和夫会長のご挨拶に始まり、鈴木、石田両氏から資料が配られ、資料に沿って第8回世界ジャンボリーのお話を聞かせていただきました。派遣団は久留島秀三郎団長以下リーダー3名、スカウト10名の派遣団でしたが、渡航方法が今では考えられない方法で、先発隊・別隊・本隊の3つに別れての派遣団であったとの事です。

 7月20日に三笠宮様より派遣団国旗を賜り、先発隊は7月22日に名古屋港から「山里丸」で、別隊は8月1日東京芝浦港から「日向丸」で、そして本隊は、8月6日横浜港から「高花丸」で出航しました

 貨物船の為に荷積の関係で航路などはその都度代わり、到着地も確定しない渡航でした。先発隊は8月6日にカナダのバンクーバーに到着し、16日にはジャンボリー会場に入りました。別隊は20日にジャンボリー会場に到着。本隊は21日サンディゴに入港、そこから飛行機でジャンボリー会場に向かい、翌日の22日に会場に到着しました。

 ジャンボリーは8月22日から28日の期間でしたが、その後10月の初めまで各地の観光をしながら日系人の方々とパーティなどで親交を深めながら、帰路も3隊に別れて帰国しました。

 1隊は9月7日ポートランドより「高東丸」で出航して9月25日名古屋港到着、2隊は17日シアトルから「建川丸」で出航、10月2日横浜港到着。第3隊は20日「氷川丸」で出航、10月4日横浜に到着  しました。その後、11月6日に第8回世界ジャンボリー派遣団「解団式」を東京椿山荘で行っています。

 この様に3つに別れての派遣団は今では想像もつかない事ですが、当時は1ドル360円の時代であり、持ち出せる金額も500ドル位と制限されている時代でしたから、少しでも安い方法という事でこのように分かれたものとご説明がありました。貨物船では乗船可能な旅客数が少なく、別れて乗る事となったのでしょう。また当時はパスポートは無く、ジャンボリーに参加するという写真付き証明書のカードで出国入国のサインをしたそうです。

 EO会の第一部は貴重なお二人のお話でしたが、第二部は第23回世界スカウトジャンボリーにEO会出席者の14名の皆さんが奉仕や見学で参加しましたので、順に皆様のお話を伺いました。70歳台、80歳代の方々が全期間奉仕をされたりしていましたので話は尽きず予定時間を大幅に過ぎた会になりました。

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【ご出席の皆さん】

 ちなみに大石和夫会長はライオンズクラブのメンバーで、日本連盟などからの要請でライオンズクラブの皆さんへご協力を要請、賛助金の他に、全派遣隊へ炊飯用コンロとタープを提供して頂きました。ご承知の通り、ライオンズクラブとボーイスカウトは、その「根」は同じです。いわば兄弟とでもいえる団体ですが、ご支援に感謝したいと思います。ありがとうございました。
 写真は今回開催のジャンボリーで会場内に置かれたライオンズクラブのブースです。左から神奈川連盟矢島巖さん、大石和夫EO会長、富士スカウト・衆院議員・文科省政務官・山本ともひろさん、そして右端はが東京連盟高橋勝興さん

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 また、今回のジャンボリーのご感想をそれぞれお話頂いた折り、
「世界スカウトジャンボリーだから日本に来たのではなく、日本で開催される世界ジャンボリーだから来たのです」
とおっしゃる海外からの派遣隊の方が実に多数であったとか。とてもうれしい事です

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2015年05月04日

白橋龍夫さん-再建ボーイスカウト受難時代-(産業新潮昭和58年8月号より)

「産業新潮」という月刊誌があります。その昭和58年8月号に掲載された白橋龍夫さん(日本連盟参与)の寄稿をご紹介します。

 戦後のボーイスカウト運動再建では、物心両面からその活動をしっかりと支えた数多くの方々がいらっしゃいます。白橋龍夫さんもそのお一人で、ご自宅はもちろん、経営していらっしゃった(株)白橋印刷所の社屋を需品部として提供して下さり、連盟への巨額な資金貸与で会社の運転資金に困窮することまでもあったとか。

 今とは少し異なる、「こころざし」を感じませんか。華々しく連盟史に登場する皆さんではなく、しっかりとスカウト運動を支えてくださった方々をご紹介し、感謝の念をこめ記録として留めておきたい。そう思います。以下にその記事の全文をご紹介します。

産業新潮8月号 昭和58年7月25日発行(産業新潮社/東京都中央区)より

「再建ボーイスカウト受難時代」ボーイスカウト日本連盟参与 白橋龍夫

-BS運動に六十年 日本連盟の沿革と現状-

 戦後三十八年、日本は世界に誇る復興躍進をなし遂げ、経済大国として世界注視のマトとなっている反面、国内ではようやく教育のヒズミから先ごろのような中学生の衝撃的な事件が相つぎ、将来の日本はどうなることかと不安な気持でおりますが、私も戦前からボーイスカウト運動関係のひとりとして、青少年教育にある程度の関係を持ち続けた人間で、問題校の教師の立場、生徒の生活環境やその心境を思いやり無関心ではおれないものがあります。
 私がボーイスカウト運動に関係してすでに六十年になりますが、お陰でボーイスカウト日本連盟の現勢は約三十三万人を数え、戦前の十倍の人員となっております。戦後のボーイスカウトの教育をうけたものは通算しますと120万を越すものと思われます。
 わが国のボーイスカウト運動の創始は、1913年(大正二年)といわれておりますが、私どもそのころの仲間が日本ボーイスカウトクラブに集まり、オールドスカウトとしての活動を行ない、今では現役との交流、ボーイスカウト日本連盟の計画や行事への協力、このほか外国の仲間や友好団体との交歓などをなっている次第であります。

-戦後の再建に協力 GHQの説得に当たる-

 想起すれば、三十八年の昔、日本国民が初めて体験した敗戦、占領中の軍政下にあって、国の復興には国民等しく困苦欠乏の時代がありましたが、ボーイスカウトの再建にあたっても世界を相手にして戦った日本の軍国主義の再起をおそれて、海洋(シー)、航空(エア)少年団の創建が禁止され、規約ひとつを作るにしても占領軍の意向を打診しつつ進めたものであります。
 私が結団の前から相談に与っていた東京・目黒の都立大学近くに住んでいた、アメリカ生れの二世でサンフランシスコ・クロニクル、同盟通信社、NHKを経て、当時日刊英字紙ジャパン・タイムスの社会部長だった村山有氏が、ボーイスカウト再建にあたって進駐軍との折衝の矢表てに立ったのでした。直接その衝にあたらない戦前の熱心なスカウト指導者の同志には不満が多く、内容を批判し、占領軍と談判にあたっているものを泣かせたものです。
 相手は紳士とはいえ、勝者の立場にある占領軍の軍政下、たとえば、現在日本ボーイスカウトが使用しているスカウトき章は、全体の形は世界各国ほとんど同一で、花形は百合(ゆり・愛)、三個の花弁はスカウト・サインの三つの誓いをあらわし、真中の弁は北を指すコンパス、二つの星は真理と知識を、そしてスカウトの目を型どったものですが、何とはなしにアメリカ占領軍の押しつけたものという印象は否めませんでした。戦前の少年団時代のき章、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂 曲玉(やさかにのまがたま)のひとつでありましたが、この鏡を入れて「日本人の心」をあくまでも残そうとする村山東京連盟理事長に対し、占領軍当局は猛然と非難攻撃をしたが、村山氏らの説得で日本側の希望が入れられ、私はいつもこのことを回願しては、アメリカが当時の状況下にあってよくこの鏡を許したものだと感慨を新たにするとともに、今日までこの鏡が生きているのであります。

-私宅を会議場として GHQ幹部を接待-

 このようなことから米軍関係者とは、たびたび打合わせの必要にせまられ、幸い築地明石町の私宅が戦災にあわず残っていたため、当時の日本連盟三島通陽総長からここを是非会議場としてお貸しくださいと懇願され、当時の状況に、止むをえずとこれを承知し、ボーイスカウト日本連盟会議場としたのです。一日も早くGHQ(連合国軍総司令部)の許可を取りつけるために、会議に出席の外人には必ず日本食を準備して、当時日本人としては最高のもてなしをするハメとなり、金もなく物もない時代、家内に無理算段させて外人の好む天ぷらを整えるため、伊勢エビは、当時華河岸にも入荷が少ないために夜半に買出しに行き、愚妻が多少の調理の心得があったため、徹夜で料理を作ったものでした。
 今でこそ都内の著名なデパートには、ボーイスカウト用品売場が特設されておりますが、当時日本連盟の需品部は私の社の八丁堀の印刷工場を無償貸与したり、連盟資金もなくついつい立替えるハメとなり、100万に近い金額を出資し、私は社の運転資金にも困窮することがたびたびあり、日本連盟も私も行きがかり上過渡期の苦難を味わったものでした。
 GHQ民政局より私宅に集まった外人は、ダーギン、タイパー、フィッシャー夫妻、ウイリアム、スチュアート大佐、リビスト少佐、ネピア少佐、サリバン女史らで、三十余年たった今では懐かしい記録にある人々です。また、日本側は、故三島通陽、故岡本礼一、故村山有、関忠志の四氏が交渉の主体となり、他に古田誠一郎、今田忠兵衛、尾崎忠次、鳴海重和の諸氏や、時には夫人方のお力添えも大なるものがありました。
 たびたびの会談のうちに尚一層の和を求め、ひたすらボーイスカウト誕生のために伊東温泉行きとなり、旅館「いずみ荘」に唄い踊る芸能人ともども、前記外人のほか、伏見朝子さま、三島通陽夫人、塩野女史方々の涙ぐましいご協力でご出席くださり踊りの輪を作る等、ご努力の程は感謝の至りでした。昭和二十三年十一月七日伊東市の肝いりで市の公会堂でボーイスカウト運動の講演会のおり、スチュワート大佐の発言で、戦後のボーイスカウト運動史上最初の国旗の掲揚と国歌「君が代」の斉唱を許された時、私達はこれでボーイスカウトの再建は半ば成功したものと感涙にむせんだものでした。

-BS日本連盟の再建 幾多の迫害を克服して-

 この運動の結果が、ボーイスカウト再建運動の狼煙(のろし)となって、全国各地に存在の戦前のスカウト同志達が運動の主体をはっきり認識して力強く動き得たと存じます。
 当時文化人と称する方々のもっとも多いとされたいたのは、目黒と世田谷の両区といわれていましたが、村山理事長の自宅近くの都立大学のキャンパスでは学生が労働歌を高唱し、また自宅の前の区立中学校では校舎のスピーカーから白昼公然と教師により「ボーイスカウトに入るな。米国の欺瞞政策だ」等々、あらゆる反米宣伝があったが、地もとの大学生の文化サークル「八雲青年会」が村山氏に協力して理事長の地もとに一日も早くボーイスカウト隊の創建をと努力したが、暗やみから石が飛んでくるなど、若者達は恐れをなして何度も結成はざ折、ついに村山氏は、軍隊から復員した指導者を隊長に任じ、一方日比谷の米軍憲兵隊司令部バーンズ少佐に連絡、地もと碑文谷警察署長は防犯係の私服を結成準備の隊活動には派遣ひ護するという、今ではとうてい考えもつかない迫害をうけたのでした。隊長も父兄も決死の覚悟で隊づくりに奔走したのでした。このような事情から、東京では成城学園に第一隊、浅草に第二隊と結成をみ、とうとう村山氏の地もと隊はようやく七十番目の結団をみたのでした。
 マッカーサー元帥に談判をして、日本のボーイスカウト再建の許可を取り付けたり、日本列島を取り巻く当時のマッカーサー・ラインなるものを撤廃させた民間外交の立役者国際新聞人の村山氏は昭和四十三年に、再建の揺らん期に終始苦労をかけた家内も昭和五十二年に亡くなりました。日本人がはじめて体験した敗戦、それから四十年もの平和なっ暮らしになれた今日ではとうてい想像もおよばぬことで、歴史はとかく時の為政者の手によって勝手に都合のよいように改編改ざんされ歪められ、歪んだまま正統と信じ認められてしまうこと数多くあり、まことに残念の至りです。

-青少年の健全育成と 祖国の繁栄に寄与を-

 この再建初期の状況が、日連本部には記録が少ないのは、当時本部の役員であった故三島氏、故岡本氏、故村山氏の死亡により自然推移によることと思います。しかし当時会議にご参加くださった方々が今回ご健在であらせられることは、誠に心強きかぎりとご祝福申しあげます。
 昭和十三年、少年団日本連盟の月刊機関誌『少年団研究』第二号の印刷からその衛にありましたものとして、ひと言ボーイスカウト再建運動中故人となられた同志の当時の逸話をご披露し、とくに村山理事長方々の供養にと「ぶしつけ」をも顧みず筆をとりました。昨夏、山形市でのボーイスカウト日本連盟の総会で、私に渡辺総長より特別感謝章を伝達されましたが、愚妻にくださったものとありがたく拝受した次第です。
 ボーイスカウトに限らず、今後も青少年教育の健全育成のため関係者と親しくご連絡をとり、祖国の繁栄発展に寄与したく考えております。
                         株式会社 白橋印刷(現在は株式会社白橋)
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2015年04月16日

制服で卒業式へ


 3月末のフェースブック(SNS)に、北海道連盟帯広第4団からこのような記事投稿がありました。

「十勝方面の多くの小学校は、今日が卒業式でした。帯広第4団のスカウトがボーイスカウトの制服を着て、卒業式に出席しました。こちらの地域では、卒業式には中学校の制服を着用するのが通例なのですが、『小学校1年から6年間がんばって活動してきたから、ボーイスカウトの制服を着て式に出席したい』と、自分で決断し卒業式に臨みました。堂々とした姿に感動しました!卒業おめでとう!」

 聞けば、スカウトからご両親に相談があり、その連絡を受けた所属団の清水団委員長は、「制服着用で卒業式に臨むと連絡が来たときは、驚き、うれしさ、若干の不安」があったそうです。

 この記事と共に、小学校の前で敬礼する写真も添えられていました。フェースブックでは、他にも全国各地で卒業式に制服姿で列席したスカウトの写真が紹介されていますが、しかし、女子スカウトは初めてです。スカウト活動大好きな、活動に誇りを持つスカウトが、卒業式に制服で出席する姿にはとても感動を覚えます。恐らく、ご両親や彼女を育んだ指導者の皆さんも、同じ想いでしょう。
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 ちなみに、このお嬢さんが卒業した小学校のある池田町は、帯広市のお隣です。池田という町名は池田農場があるからで、明治時代、池田仲博侯爵(旧鳥取藩主)らが払い下げを受けてこの農場を開いています。その池田侯爵のご子息は、戦後、ボーイスカウト日本連盟の国際委員長でした。この事にも、ちょっぴりとボーイスカウトとのご縁を感じます。

 卒業おめでとうございます。そして、中学校入学おめでとう!これからもスカウティングを楽しんで下さいね


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2015年03月21日

EverOnwardの集い配布資料

平成27年2月28日(土曜日)日本富士スカウトクラブ主催のEver 
Onwardの集い(EO会)ではさまざまな資料が配布されました。
 その中から、お話をして下さった栃木県連盟評議員の宇都宮第1団
鴨志田敬さんの「なわ結びに関心を持ち始めた動機と、第10回世界
ジャンボリー(フィリピン)に参加した頃」と、「村山有と第一回全国大会」
の二つをご紹介します。

【配布資料】(資料名の上をクリックして下さい)
1.「なわ結びに関心を持ち始めた動機と、第10回世界ジャンボリー(フィ
  リピン)に参加した頃」

2.「村山有と第一回全国大会」

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2015年03月06日

2月28日開催EverOnwardの会(EO会)

平成27年2月28日(土曜日)日本富士スカウトクラブ主催のEver 
Onwardの集い(EO会)が日本記者クラブ会議室で開催されました

 今回は栃木県連盟評議員の宇都宮第1団鴨志田敬さんからお話
を いただきました

 鴨志田さんは栃木県でスカウト運動に参加され那須野営場の中
村知場長とも親しく交流されていました。また、日本連盟機関誌の
「ジャンボリー」15号(昭和29年5月1日発行)の[研究ページ]に 
「なわ結びの話」を寄稿され、1959年の第10回世界ジャンボリー
(フイリッピン)には派遣団・関東第2隊の副長で参加されました。
今回は当時の事を中心にお話を聞かせていただきました

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 鴨志田さんのお話は、おもむろに藁の束を取り出しての藁縄を綯 
(な)う技のご披露より始まりました。次いで1954年5月発行の「ジ
ャンボリー」誌に書いた「なわ結びの話」、大学農学部ご出身という
こともあってお話は多岐にわたります。
 縄文時代の古墳発掘でひとえ結びが発見されたこと、沖縄の縄算
個人が独特の結びを考え、それが所有者識別に使われたこと、罪人 
の捕縄術など、興味深いお話が続きます。伊勢流・小笠原流・方円 
流など、平安時代には縄結びの流派まであったと知りました。

 次いで中村知さんのお話になり、中村さんが大阪から栃木県の那須
野営場場長に就任された折に地元の中臣昭範さんと共に奉仕された
お話しや、中村さんの人柄やペンネームの「東野通義」の由来などの
お話をいただきました

 そして、第10回世界ジャンボリー大会のお話になりました。大会は
1959年フィリピンのラグナ湖に近いマッキリン公園内で開催され、
44カ国から12203名が参加し日本からは520名の大派遣団でした。
鴨志田さんはは関東第2隊の副長での参加でした。また、その時の隊
長は埼玉県連盟副連盟長をされた高田福松さんでした。(高田さんは
EO会会員の村山さんと同じ杉戸団の団委員長)

 そしてお話は、フィリピンで戦犯として捕虜となった旧軍人作詞作曲 
「ああモンテンルパの夜は更けて」にまでお話は及びました。事前に
用意された資料を元にしてのお話で、すべてきちんと関連付けられ、
聞く方の違和感は有りませんでした。モンテンルパは、ジャンボリー会
場に向かう途中の別れ道を入ったあたりにあったそうです。
 また、2006年のノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスさんは
パングラデシュ派遣団として参加であったとか。

 お話はまだ続きましたが、残念ながら途中で時間切れ、次の機会が 
待たれます。その後は皆さんの近況やコレクションのご披露。今回は
徽章です。
(この3月1日に発行された機関誌「SCOUTING」著名人インタビューで
ミズノ(株)の水野正人会長がボーイスカウト・アンバサダーと紹介され
ていますが水野会長も第10回世界ジャンボリーに派遣団の一員とし
て参加しています)

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posted by 日本富士スカウトクラブ広報 at 02:48| Comment(0) | TrackBack(0) | EverONwardの会