2011年12月06日

ボーイスカウト日本連盟、その"移転"の歴史

今年10月、長きにわたって三鷹の地にあった日本連盟が都心へ移転した。またしても……



 8月20日、日本富士スカウトクラブが主催するever onwardの会が日本記者クラブ会議室で開催されたが、そこで村山前世話人代表から、「今回の移転を機に、転々とかわった(または変わらざるを得なかった)日本連盟の移転が、記憶違い、またはその他の事情で正確に記録されていないため、精査したものを残しておきたい」と発言があった。



【戦後のボーイスカウト日本連盟事務所移転の推移】



 先日、ある所で根岸真太郎元事務局長が「事務局流転ぱなし」という文章を書かれているのを拝見ました。その文章の中に「東海汽船の月島倉庫をかりていた後の事務所は古田誠一郎氏が虎ノ門巴町の建物を借りてボーイスカウト会舘を作る構想を練ったが、その後浅草本願寺の部屋をかりた」とありました。相当昔の事なので多少記憶も前後したりする事でしょう。今年は三鷹の日連本部が移転しますのでこの機会に戦後の事務所の推移を見てみたいと思います。



 戦後、日本連盟の再建を第3代少年団連盟総長竹下勇海軍大将より頼まれた村山有氏は、集まる事を禁じられていた少年団の出身者を三島通陽氏らと集め、品川の森村学園で「ボーイスカウトクラブの集い」を開いて基礎を作りました。再建準備事務所は山本有三氏所有の中央区銀座の「交詢社ビル」の1室に置きました。また、GHQ関係者の許可を取る為、中央区明石町の「白橋龍夫氏の私邸」を日連会議室にしてGHQ関係者の接待をしました。昭和22年5月1日再発足の為に三島氏を理事長として、村山理事のほか5名の理事、総主事1名、合計8名で構成された臨時中央理事会が作られました。日本連盟本部をGHQの許可を取り中央区京橋の「千代田生命舘ビル」内に置きました。昭和23年米軍スカウトの出入りの多い港区芝の「マソニックビル
(旧水交社ビル)にも分室を置き米国BS関係者との会議等はマソニックビルを使用しました。昭和24年2月12日、ダグラス・マッカーサーを名誉総長、三島通陽氏を理事長としたボーイスカウト日本連盟結成、名誉総長室をマソニックビルに設置しました。現在名誉総長の使用していた部屋は当時のままの形で現在の芝新マソニックビルに保存されています。GHQ関係者や米国スカウト達は千代田区の帝国ホテルに宿泊している者が多かったので毎日、日本の情報やBS再建の打合せをする為にすぐ側の内幸町のニッポンタイムズ社(現在のジャパンタイムス社)の村山有氏を訪ねてきました。それらの打合せの中から、当時日本政
府が確保していた大量の放出物資等と共に米国軍当局関係者からの協力でバザーを開催しました。放出物資の毛布や古着等の物資を集め販売してスカウト運動の資金にする為にある程度の広さの場所が必要になりました。ニッポンタイムス社向かいの国鉄高架下には帝国ホテルに宿泊の外人の為に日本のお土産が揃うインターナショナルマーケットやニッポンタイムスの英字印刷工場などが入っいて外人の出入りの多い場所がありました。昭和24年3月に千代田区内幸町の「国鉄高架下」に日連需品部を設置しました。8月には岡本礼一氏の努力で朝日新聞社の村山社主などの協力を得て渋谷の東横デパートや大阪の大丸デパートなどでバザーを開催し販売しました。物資の少ない時代なので大変な人気で販売でき売上げ金はスカウト運動の基礎づくりに充てられました。また、昭和24年10月には米国の野球チーム、サンフランシスコシールズが来日しました。オド−ル監督と村山有氏は米国時代からの友人であったため親善野球の利益から当時の金額で約100万円と自分のユニホームを日連を通じて村山氏に寄付してくれました。日連はこの寄付金を指導者養成費として使用したそうです。昭和25年8月には需品部を内幸町の国鉄高架下から中央区八丁堀の「白橋印刷所」の印刷工場内に移転、白橋龍夫社長には戦前から少年団研究の第2号から印刷をお願いしたり戦後の日連再建時からも経費を立替えていただきその額は当時の金額で100万円以上にもなりました。しかしその立替え分は返却はされずに白橋印刷所の経営にも苦難がありました。その後、需品部は本部内に置かれましたが東京本願寺の本部の時に一時杉並区永福町に置かれました。村山氏はGHQや外国の友人等の協力を得て100万円の募金に成功し、昭和26年7月に港区西久保巴町にに日本連盟本部用に「西久保巴町洋館」を購入し、東京連盟の本部分室も置きました。西久保巴町の洋館を後にスカウトホールの予定をしていましたが、村山氏はスカウト運動再建も軌道にのったので昭和26年、佐野常羽氏が先達となった全国大会で相談役を委嘱され第一線から外れて東京連盟で活動して行きました。その後、苦労して入手した港区の本部は昭和32年3月売却されてしまい、米国関係者の協力でどれだけの苦労で手に入れた会舘をと村山氏は亡くなるまで悔やんでいました。昭和32年年3月日本連盟は西久保巴町から中央区月島の「東海汽船月島倉庫」に移転。この倉庫は2階建てのとても古い木造建築でした。その後、昭和43年7月から台東区西浅草の「東京本願寺別館」へ移転。昭和45年8月三鷹市大沢に「日本連盟本部」が完成し入居し現在に至っています。(平成23年10月に日連は文京区本郷に移転予定)



《日本連盟本部及び需品部》

21年〜22年5月

・再建準備事務所 中央区銀座 交詢社ビル

21年〜22年5月

・日本連盟会議室 中央区明石町 白橋龍夫氏私邸

22年5月〜26年7月

・日本連盟本部 中央区京橋 千代田生命舘ビル

23年〜26年7月

・日本連盟分室 港区芝 マソニックビル

24年2月〜

・日本連盟総長室 港区芝 マソニックビル

24年3月〜25年7月

・日連需品部 千代田区内幸町 国鉄高架下

25年8月〜26年6月

・日連需品部 中央区八丁堀 白橋印刷所

26年7月〜32年3月

・日本連盟本部 港区西久保巴町 西久保巴町洋館

32年3月〜43年7月

・日本連盟本部 中央区月島 東海汽船月島倉庫

43年7月〜45年8月

・日本連盟本部 台東区西浅草 東京本願寺別館

43年7月〜45年8月

・日連需品部 杉並区永福町

45年8月〜現在

・日本連盟本部 三鷹市大沢 日本連盟本部


<参考:東京連盟事務所の推移>



東京都連盟の事務局は昭和23年の1階に日本連盟分室と一緒に本部を設置。事務所は銀座の改造社に設置。マソニックビル改築時に一旦鳴海事務所に移転。その後、中央区八丁堀の白橋龍夫氏の白橋印刷所に移転しました。昭和24年10月港区赤坂一つ木町の円通寺内の日勝文庫(中里顕勝氏)、昭和25年5月台東区浅草石浜町の通入寺(伊東脩己氏)、昭和26年6月に事務局とは別に本部を港区芝南佐久間町にマソニックビルから移転。その後本部は昭和27年12月港区芝西久保巴町の日本連盟内、昭和32年3月中央区月島の東海汽船倉庫、昭和43年7月台東区東京本願寺、昭和45年9月戸山公園少年館、昭和48年6月
OMYCに移転現在に至る。

                                                                           

昭和23年〜

・東京都連盟本部  港区芝 マソニックビル

・東京都連盟事務所 中央区銀座 改造社

昭和23年〜

・東京都連盟事務所 中央区 鳴海事務所

昭和24年〜

・東京都連盟事務局 中央区八丁堀 白橋印刷所

昭和24年10月〜

・東京都連盟事務局 港区赤坂一つ木町 円通寺日勝文庫

昭和25年5月〜

・東京都連盟事務局 台東区浅草石浜町 通入寺

昭和26年6月

・東京都連盟本部   港区芝南佐久間町

昭和27年12月〜

・東京都連盟本部   港区芝西久保巴町 日連洋館

昭和32年3月〜

・東京連盟本部    中央区月島 東海汽船倉庫

昭和43年7月〜

・東京連盟本部    台東区浅草 東京本願寺

昭和45年9月〜

・東京連盟本部    新宿区戸山 戸山公園少年館

昭和48年6月〜

・東京連盟本部    渋谷区代々木 OMYC

posted by 日本富士スカウトクラブ広報 at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | EverONwardの会
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